ポジティブシンキングLife

雑用はすすんで引き受けよう!

■ディテールに神様は宿る

世の中、ラブソングは履いて捨てるほどあります。自分が好きなラブソングが、なぜ好きなのか、考えたことはありますか?シンガーの声が好きと言う人もいます。女性は声を非常に意識する生き物ですから、声で好き嫌いが分かれます。井上陽水と徳永英明が同じ歌を歌っていても片方は好きで、片方は全然好きじゃないということが起こります。曲調が好きという意見もあります。歌詞が好きという意見もあります。好きな歌詞とは、たいていその人にとってとってもリアルに感じる歌詞です。そういう歌詞を思い出してみてください。

ディテールまですごくリアルに書いていると思いませんか?概念を書いているだけの歌詞で、あまり好きな歌詞はないのではないでしょうか?概念を書いてあっても、歌詞の途中の1つの言葉が、概念を具体化していて「なんか映像が見えるわ」という歌詞に根強い人気があります。ディテールにこだわれば、人の記憶に永遠に残る歌詞がつくれるというわけです。

ふだんの仕事も同じで、とにかく雑用を人に振る人がいます。30歳も超えると部下が出来ますから、部下に仕事を覚えさせるために雑用を部下に振る人もいますが、「めんどうだから、部下に振っちゃえ」という意図が見え隠れしている時もあります。雑用を振られたら、まじめに丁寧にやりましょう。ディテールに神様は宿ります。どんな雑用でも、それを続けていたら見えてくるものがあります。それが仕事の本質です。本質が見えるまで、何回も何回も雑用を丁寧にこなしましょう。

人は具体的に生きる

■仕事の本質が見えたら、それは生きていく上で大きな武器になります。

雑用をおろそかにしていると、物事の本質が見えません。本質が見えていない人との議論は往々にして観念的です。抽象的で具体性に欠けています。そういう人といくら議論しても結論がないというか、朝令暮改でコロコロと意見が変わります。本質がわかっていないから、そもそも議論になっていないということです。まったく意味のない時間のムダですが、仕事ですからその人をのけものにするわけにもいかず、具体性に欠けた話をして、現場に戻って具体的に仕事を進めるという、器用なことをしていかなくてはなりません。

人は概念で生きているわけではありません。朝起きて歯を磨くのは具体的な行為です。昼ごはんになにを食べるのかを決めるのも具体的な行為です。「私は形而上的な二日酔いがまだ残っていて、ゾルゲ的な盛りそばを食べたい」などと言えば、誰も相手にしてくれないように、生活とは具体的行為の積み重ねで、そうやって積み重ねていった先に、なにを見てなにを感じるかが、その人の人生を左右します。その人の人格を形成します。

雑用をしっかりやって、じゅうぶんに手を動かした人は、積み上げた先に見えるモノが、具体性を持って見えてきます。してこなかった人は、いつまで経っても淡い水彩画の抽象絵画のようにぼんやりとしたままです。どうせなら具体的に未来を見て、ロール・シャッハのようにだまし絵の1枚でも描けるようになったら、人生はおもしろくなります。

意味を考えない

■なぜおもしろくなるのかと言えば

先が具体的に見通せたら、人生の意味を考えなくて済むからです。多くの人は「本当の自分ってなんだろう」と考えています。本当の自分に出会いたいわと。そんな人なんていないにもかかわらず。つまり、生きている意味を考えているんですね。生きていることに意味はないから、生きている意味を考えるという行為は、非常にシンドイことです。ないものをあるようにしなくちゃならないんですから。ブッダは本当の自分を求めて若くして出家します。悟りを開いた時に本当の自分などいなかったと彼は言いました。実際に本人に聞いたわけではないですが、そう本に書いてありました。人は意味なく生まれてきます。両親がやることをやって新しい生命ができただけで、そこにさしたる意味はない。「私たちに子どもが欲しいわ」と親が願ったから、生まれてきているだけであって、意味と共に生まれたわけではないのです。

意味を考えてしまうということは、具体的に生きていないということです。進んで雑用をしないからそういうことになります。そういう意味合いにおいては、平安時代の人や江戸時代の庶民は、生きている意味など考えなくて、さぞや幸せだっただろうと思います。朝、太陽が登ったら畑に行って、太陽が沈んだら帰って寝るだけです。気分的に楽ですよね。

生きる意味に溺れないで、いま目の前にあることを具体的に手足を動かして精一杯やる。それの繰り返しだけで、人生は楽しくなります。ブッダみたいに出家する勇気があれば意味を精一杯考えてみたらいいと思いますが、目の前のことを精一杯やって、生活することを面白くしたほうがいいと思います。これだけ楽しいことがいっぱいある世の中です。ブッダだって、もし現代社会に生きていたら、フェラーリに乗るために必死になって働いていたかもしれないのです。